バレエの歴史
バレエの歴史を知ろう
ちょこスタ✍🏼
バレエってなんだ?♯1
歌詞や台詞を伴わない、身体表現を通じて物語や感情を伝える、舞台舞踊。
音楽伴奏、舞台芸術を伴い、ダンスによって表現する総合芸術。
バレエの歴史① ~バレエ発祥の地~♯2
バレエは「イタリアで生まれ、フランスで花開き、ロシアで成熟した」とよく言われます。
(引用:ビジュアル版バレエ・ヒストリー バレエ誕生からバレエ・リュスまで よりP8 著:芳賀尚子)
ルネッサンス期、イタリアで発祥。イタリアのでは音楽、美術、演劇、舞踊が栄えていて、イタリア宮廷では、余興の文化が華やかに発展しており、詩の朗読や演劇の一部としてBallo(バロ)と呼ばれるダンスが生まれる。
主に社交術であったものが、のちにフランスに伝わる。
次回はイタリアルネサンスの学問、芸術をフランスへ伝えた立役者について♫
バレエの歴史② ~イタリアルネサンスの学問、芸術を
フランスへ伝えた立役者~♯3
バレエはイタリアルネサンス期に生まれ、主に宮廷の社交術であった。(#2の復習)
バレエがフランスに伝わったのは、1533年にカトリーヌ・ド・メディシスがのちにフランスの国王アンリ2世となる、オルレオアン公アンリ・ド・ヴァロアのもとに嫁いだためである。
バレエや洗練された礼儀作法、フランスといえば多くの方が思い浮かべる、フランス料理とその作法、フランス菓子の食文化はカトリーヌによって発展した。
カトリーヌ・ド・メディシスによってふらんすへもたらされたバレエは、貴族のたしなみとなった。こうしてフランスのバレエは新たな一幕を迎えることとなる…
カトリーヌ・ド・メディシス [1519-1589]
イタリアルネサンスの学問・芸術など知的世界をフランスに持ち込んだ立役者。イタリア・フィレンツェの政治、文化その両面に君臨したメディチ家出身。
バレエの歴史③ ~宮廷バレエ~ ♯4
宮廷文化とバレエはカトリーヌ・ド・メディシスによってフランスへ持ち込まれた(前回の復習)
この時代のバレエは「宮廷バレエ」といわれ現代のバレエとは非常に違ったものであった。
1573年にカトリーヌが息子をポーランド王にする目的で、ポーランドからの使節をもてなすために「ポーランドのバレエ」という作品が上演された。この作品ではじめて「バレエ」という言葉がつかわれた。
次回は宮廷バレエについての続き♪
バレエの歴史④ ~宮廷バレエ~ ♯5
宮廷バレエは現在のバレエとは非常に違ったものであった。上演時間は3時間以上、作品によっては10時間近くあったといわれた。
舞台は庭全体を使う壮大なもので、噴水や大掛かりな装置は見どころの一つであった。
観客はダンサーのフォーメーションや、仕掛けなどを楽しめるよう、少し高いところから眺めることが多かったようである。
作品のテーマは主に神話であった。作品の最後には観客たちも加わって踊る大舞踏会的な構成だったようである。
社交界の人たちにとってバレエを踊れることが必要になった。当時のバレエは「バロックダンス」と呼ばれるようなもので現代のバレエとは違う姿をしていた。
次回はバロックダンスについて♪
バレエの歴史⑤~バロックダンスについて~ ♯6
バレエの起源はイタリア、ルネサンス期。バロックダンスといわれるようなもので、貴族たちの社交術であった。宮廷の舞踏会で踊られた踊りといわれる。
バロックダンスはヒールのある靴で、つま先で立つことはなく、足は現代バレエと同じく外向きに開く。跳ぶ動きはほとんどなく、回転、屈伸の動きが中心で衣装は重厚(貴族の衣装)、楽器はミニットヴァイオリンと呼ばれる弦楽器が踊りの練習や、演奏にも使用されていた。
宮廷人としての品格、風格を示すための大切な要素とされており、宮廷での生活に必要不可欠なものであった。
もともとは貴族の身体作法として足の位置や(現代バレエの足の5つのポジション)、挨拶をするときの動きなどの基本が定められていた。貴族の礼儀作法がバレエのベースで、そこから踊りとして発達していく。
カトリーヌ・ド・メディシスによってバレエがフランスへ持ち込まれた後、フランス宮廷文化におけるバレエの存在はとても重要であった。バレエはルイ14世の時代に黄金期を迎える…
バレエの歴史⑥~踊る男から始まったバレエ~ ♯7
フランスでバレエが最初のピークを迎えたのはルイ14世の時代。
ルイ14世は「踊る王」、「太陽王」と呼ばれていた。
「太陽王」と呼ばれるようになったのは、1653年宮廷バレエのもっとも有名な作品の一つ、「夜のバレエ」で太陽役を踊ったためであった。
カトリーヌ・ド・メディシスからの歴代国王
カトリーヌ・ド・メディシスはヴァロワ朝、アンリ2世の妃。
アンリ2世が崩御しアンリ2世とカトリーヌの息子たち(フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世)が王位を継承。やがてヴァロワ朝は断絶。
その後ブルボン家アンリ4世が王位の座に就く。(この時代の王たちは暗殺されることも多く平穏な時代ではなかったといわれる。)
アンリ4世が暗殺され、息子のルイ13世が幼くして即位(8歳-41歳)。その後ルイ13世の息子のルイ14世が5歳で王位を継ぐことtなる。(ブルボン家は23年間子が生まれることがなかったため、ようやく誕生した王位継承者を大いに祝福した。)彼は「ルイ・デュードネ」(神の賜物の意)の洗礼名を授かった。
ルイ14世は幼くして王位についたため、政治にまつわる仕事は母や宰相ジュール・マザランが絶対王政の治世を整えてきた。(それもあってルイ14世はバレエに熱中できたのではないかといわれている。)
ルイ14世が5歳で即位したときも、5時間に及ぶ盛大なバレエが、催されたという。当時の貴族たちにならって幼いころからバレエを習い、デビューは8歳、猿の役での登場であった。
バレエの歴史⑦~ルイ14世の政治とバレエ~ ♯8
「朕は国家なり」(私こそが国家そのものであるという意味)
17世紀フランスの絶対王政を象徴する言葉である。
ルイ14世(1638-1715) ルイ・デュードネ
歴史の中で最も長く統治した君主のひとり。72年間フランス国王として君臨した。
4歳8カ月で君主の座が引き継がれ1900万人の国民と多大な財産を手にする。最初は母、宰相マザラン(ルイ14世の名づけ親)が政治の仕事を行う。
1648年-1653年 フロンドの乱が起こる。
1660年 スペインハプスブルク家の娘、マリー・テレーズと結婚。
1661年 宰相マザランが亡くなり、ルイ14世は23歳で親政を宣言。
1715年自らが立てた豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿で77年の生涯を閉じる。
フロンドの乱
ルイ14世が10歳の時、宰相マザラン率いる政治に不満をもった貴族たちの反乱が起きた。
反乱軍はパリを包囲し、王宮内にいたルイ14世の寝室まで侵入。ルイは状況が把握できないまま実母(アンヌ・ドートゥリッシュ)とパリから一時的に避難。パリはたちまち無政府状態に陥る。
幼い王にとって貧国や恐怖、屈辱、寒さ、飢えなどにひどく苦しみ、1652年14歳のルイは自分の部下や貴族たち含むすべてを疑うようになる。
この大事件でルイ14世の性格や行動、思考に多くの影響を及ぼしたといわれる。
ルイ14世はパリの滞在を嫌い、パリから寒村であるヴェルサイユへ政治の中心を移し、豪華な城を築くようになる。
➡「ヴェルサイユ宮殿」の建設。
「ルイ・デュードネ」(神の賜物)の洗礼名を授かったルイ14世は、宰相マザランに「王は神によって選ばれる」という考えを少年のころから植え付けられていたこともあり、ルイ14世は「自分は神に選ばれた王である」ことを信じ、ギリシャ太陽神アポロンに自分を重ねた。自分を世界の中心である「太陽王」と呼ぶように仕向けた。
ルイ14世は「自分の勅令に従わないことはすべて積み深いこと」と信じ、惑星が太陽のまわりを公転するように、フランスが彼の周りを公転している。ヌルオートレパレル(太陽のように比類のない)をモットーとし、自身の紋章に「太陽」を採用した。
ヴェルサイユ宮殿
貴族階級が再び反乱を起こさないよう管理するため、ルイ14世は貴族をヴェルサイユ宮殿に留まることを強制した。
別名「黄金の刑務所」と呼ばれていた。
そこで貴族を縛るためのエチケットとして導入されたひとつがダンスであった…
次回は権力とバレエについて♪
バレエの歴史⑧~権力とバレエ~ ♯9
ルイ14世は自らを世界の中心である「太陽王」として呼ぶように仕向けた。
フロンドの乱により自分の部下を含めたすべてを疑うようになる。政治の拠点をヴェルサイユに移しヴェルサイユ宮殿を建設。 (別名「黄金の刑務所」)貴族たちを管理できるようヴェルサイユ宮殿に留まることを強制した。 (前回までの復習)
ルイ14世は、貴族たちを縛るための手段としてダンスを導入。(宮廷バレエ(バレ・ド・クール))
多くのエチケット(礼儀)や儀式などを宮廷内に作った。
➡貴族たちが王室を打倒するための時間と能力をそぎ取るためであった。
廷臣たちは12以上の踊りをマスターしなけらばならず、出世するため、自分の地位を守るためにすべてのエネルギーを費やした。
ルイ14世は、自分の権力を誇示し高めるためにフェンシング、ヴォールディング(跳躍)、バレエを練習した。
バレエは個人的な師匠であるピエール・ボーシャンと毎日何時間も練習していた。バレエ教師ピエール・ボーシャンによって、現在でも大変重要な「5つの足のポジション」が体系化された。
ルイ14世が15歳の時、「夜のバレエ」(「ル・バレエ・ド・ラ・ニュイ」)で太陽役を演じ踊った。権力争いが顕著な作品であった。
上演時間は12時間。日没に始まり、夜明けに終わった。
パフォーマンスの最後で太陽(ルイ14世)が夜を打ち負かすのであった。
ルイ14世は歳をとるとともに、宮廷バレエを男性らしい運動能力を体現するものとして、上演するようになった。
このとき女性は踊ることは許されておらず、女性役は男性が通常女装し演じられていた。
ルイ14世にとってバレエは国を安定維持させるための手段であった。
1661年、ルイ14世は王立舞踊アカデミーを創設。現在のパリオペラ座バレエ学校の前身である。
1670年の舞台を最後に引退。貴族にとって踊りの技術を磨いて出世する必要がなくなることを意味した。
ダンスを踊る貴族は減っていったが、職業としてのダンサーがふえてくるのであった…
次回は プロのダンサーの活躍 について♪
バレエの歴史⑨~プロのダンサーの活躍~ ♯10
1661年、ルイ14世は王立舞踊アカデミーを創設➡舞踊発展に導く基礎を築いた。
1670年、「王のディベルティスマン」でルイ14世は32歳でバレエを引退する。
王の引退とともに宮廷バレエが衰退し、職業としてのダンサーが増え、ダンスの質が変化していった。(前回までの復習)
1681年、ジャン・バティスト・リュリが作曲したオペラ・バレエ「愛の勝利」で最初の女性ダンサーといわれている、ラ・フォンティーヌ(1655年-1738年)がデビュー。
「舞踊の女王」と呼ばれるほど人気であった。
ジャン・バティスト・リュリのバレエ「ファエトン」、「アキスとガラテア」などの多数の作品の主役を踊り賞賛された。
ジャン・バティスト・リュリ(1632年-1687年)
バロック音楽の作曲家、舞踊家
作曲に関わった「夜のバレエ」で踊り手としても王の前にデビューし、ルイ14世に大層気に入られ、国王の「器楽作曲家」に任命される。
18世紀(1701年-1800年までの100年間)
➡舞踊学校、職業としての舞踊家が続々と登場。
1700年、ラウル・フイエによって、振付を記号化し、動作や、回数、ステップの踏み方などを分解して紙面に記録する、ダンス・ノーテーション(「舞踊記譜法」)が編み出された。バレエ初の文法書である。
イタリアの額縁式舞台がフランスに到来→三方や上から見下ろしていた舞台は正面から観るようになる。
1713年、パリ・オペラ座バレエ学校開設。パリ・オペラ座のなかに設立。
男性ダンサーの活躍
・ルイ・デュプレ(1690年-1774年)パリ・オペラ座バレエ学校に学ぶ。60歳まで踊り続けたとされ、体型と優雅な踊りから「偉大なデュプレ」と呼ばれる。
・ミッシェル・ブロンディ(1676年-1739年)1690年にパリ・オペラ座に入る。のちに活躍する女性ダンサー、マリー・サレ、マリー・カマルゴを育てた功績がある。
・クロード・バロン(1671年-1744年) ルイ14世の師匠 バレエ教師ピエール・ボーシャンの甥。1715年ルイ15世の舞踊教師となる。
1719年、ピエール・ボーシャンの後を継ぎ、パリ・オペラ座の総裁となる。同年、ルイ15世の作曲家に任命される。
➡バレエ用語の「バロネ」は、クロード・バロンの「バロン」から派生した名称。
パリ・オペラ座はバレエの中心として、盛り上がりを見せるのであった。
当時の舞台衣装は、男性は脚を見せていたが、女性は足先しか見えず、衣装は大変重いものだった。
女性ダンサーが活躍するようになり、技術の発展とともに、衣装にも変化が起こるのであった…
次回は女性ダンサーの活躍について♪
バレエの歴史⑩~女性ダンサーの活躍~ ♯11
女性ダンサー活躍の幕開け。
マリー・カマルゴ VS マリー・サレ
2大女性スターがパリ・オペラ座に登場。
マリー・カマルゴ (1710年-1770年)
脚のテクニックに優れたダンサーで、カブリオール、アントルシャカトルなど男性ダンサーの見せ場とされていたステップを軽々とこなし、速さ、快活さで観客を魅了。大変人気のダンサーであった。
フランソワーズ・プレヴォー、ブロンディに師事。
1726年 パリ・オペラ座へ入団。
バレエの衣装はマリー・カマルゴによって短くなった。
マリー・カマルゴの足さばきによってバレエの衣装は短くなる。
これまでの女性の衣装はスカートからつま先がのぞく程度の長さであったが、膝とくるぶしの中間くらいの長さに短くした。
くるぶしが見えるスカート丈は大変衝撃的なものであった。
この衣装の革命は非難を浴びたが、これによって脚の動きが拡大され自由になった。
次回はマリー・カマルゴのライバル、マリー・サレについて♪